Diary On My Journey

ヨーロッパ1人旅から始まったDiary〜旅するヨガインストラクター。旅日記と日々の気づきとヨガについて。いつもは、ヨガ修行のため、中央アジアと東南アジアをまわっていましたが、ヨーロッパは未知の旅になるので、記録に残そうと思いスタートしたBlog。

「何で何で攻撃」初冬に哲学・この私が感じてるものは何なの?

昨日は、また餃子を食べた。
と言っても、リーさんの餃子じゃない。
マンツーマンのヨガの後、クライアントさんが
「鍋を食べていきませんか?」と声を掛けてくださり、
陸王を見ながら、水餃子鍋を食べた。

「わーーーい!!わい!」ウキウキドキドキ!(*‘∀‘)
「御飯、足りてる?お代わりしますか?」と聞かれ、
本当は食べたいのに、かわい子ぶりっ子して、「大丈夫です」と遠慮した。
もー。こういうとこ。
欲しいものを、欲しいと言わない。バカー。
キウイをむいてもらって、「キウイは本来は皮ごと食べるものなんだって。日本人だけだって剥くの。」という豆知識を、ドヤ顔(; ・`д・´)で話して、おいとました。


次の旅の段取りを、本格的にしないとだ。何気にあと2ヶ月。
早く、知らない景色に目を奪われたい。

今回、幾つか行く国のうち
ハンガリースロベニアが、初上陸になる予定。
ハンガリーの人も街の雰囲気も暗い。」
と、聞いて、"何で"暗いのか気になって仕方ない国だった。
そして去年、ドイツを旅していた時に知り合った旅人達が、「ブタペストは美しい」と話していた。写真を見せてもらったら本当に美しい光景だった。
またそこでハンガリーの男子とも知り合い、彼は素朴でいい奴で、
陽気なポルトガル男子が、彼に「どんな仕事をしているの?」と聞いたら、
朝行う作業から順に細かく語り始めたり、
真面目な顔して知っているポルトガル語を真似し、
ポルトガル人に面白がられていた。
彼は暗くはないが、陽気でもない。ポルトガル男子と真逆で面白かった。
ハンガリーがもっと気になった。どんな国でどんな歴史が背景にあっての今なのか。

旅は、また一つの側面として
"何で?"という疑問や"知りたい"という欲求を満たすものでもある。

そういえば、私は質問魔かもしれない。
講義やミーティングで、特に意見などを率先して発言はしないが、
"質問ある人いますかタイム"になれば、挙手せずにはいられない。
溜まった質問・疑問、もう少し掘り下げた方が良さげな事をそのままにするのは、気持ち悪い。
「また、お前か。」と思われようが、その欲求は抑えてられない。

そして、多分これは私だけでなくて、
あるあるだと思うが、どうだろう?
母親がよく、私の小さい頃の「何で何で攻撃」に毎日疲れていたと話していた。

「何で掃除するの?」「部屋が汚れてるから。」
「何で汚れてたら掃除するの?」「汚いままだと気持ち悪いでしょ。」
「何で気持ち悪いと思うの?」・・・・と、永遠に続く「何で」に、
途中で根をあげて「もー!うるさい!!」ってなったって。

なので、私は物知りお兄さんや物知りおじさんが好きだ。

今や、グーグル先生がいる時代で大変に助かるが、
いくら知識として知ったとて、頭で理解する事は浅い理解だ。
体感して、自分のものになる。と、思う。

ハンガリー、私も暗いと感じるだろうか?

ここからは、ひとり問答になってしまいました。

鍋を頂いてから帰宅し、時間に余裕を持ててなくて読めずにいた
ラッセルの幸福論を読んだり調べたりしていた。

「人は1人では幸せになれない。」
「じゃ、幸せって何?」って誰でも一度は疑問に思うでしょう。
で、ラッセル幸福論って、どういうのかぜひ読みたかった。

幸福論はラッセル以外にも語られているが、
私にとってラッセルは、何となく深みがなく、
ラッセルの描く人間そのものが、私の思う人間の精神より小さく感じた。
精神って、もっと深い所からくると思うんだ。
三枚肉の皮部分くらいの事を語られている気がして、途中で気が散り、
次に、ニーチェを読み始めた。

「神は死んだ」のニーチェ
ニーチェ面白いなと思ったのだけど、すぐにまた気が散った。
最終的に集中して読み進めたヘーゲル精神現象学について備忘録で残そうと思う。
ニーチェはまた今度。

ちなみにニーチェ実存主義無神論「自由への逃走」のサルトルとかもそう。
"実存主義"というのは、神などはない・人は本来、自主的に自由に生きるものだというような考え。
人々は神という概念に縛られているので、そこから解放されるべきだという感じなのだけど、ニーチェのいう神というのは、キリスト教の神の様な"自分とは別のところにいる絶対神"などの事を言っていると思うので、日本人の私達がしっくりくる全てに神が宿っているというような概念とは別の事かと。一元論と二元論、多元論で神の捉え方が変わってくる。
元々は、ニーチェラッセルもキリスト教で育ったようだ。

反して、ヘーゲルは一元論的な観念論で神秘的なものが根底にあるとした上、精神の進化という歴史を歩んでいるという様な事を言っている。

さて、相反する人間が神を作ったのか、神が人間を作ったのか?
私は、どっちでもねー。と、思います。
全てがただあるだけ。じゃないかと。

人は本来自由だし、もし何かが人を縛っているのだとしたら、それは神じゃなくて"自分が自分を縛る自由を手にしているだけだ。"と、思う。
神がいるから依存してしまうのだとしたら、それは神のせいじゃない。
自分を理解していない自分のせいだ。それも自由の元のこと。
ある意味では、サルトルの言う、「人は自由という刑に処せられている。」という事なのかもしれない。
大体、宗教なんて、この宇宙が出来た年月、星の光が届く年月に比べたら
最近の概念じゃんよね?

また、ニーチェ虚無主義であり、世界が虚無的なのは当然な事なのだと言う。
「何の為に生きているのか?」「何の為などはない。」ニヒリズム的な。
ニーチェは心理学的には面白いし、とても人間臭さが好きだけど、やっぱ魅力的じゃぁない。
多分、モテない男だったと思う。

で、こんな本を見つけた。
有吉さんが、ニーチェを一生童貞とバカにし、
サルトルのことは、ヤリチンと言っている模様。

何で?何で?を掘り下げていったら
最終的には、どれも愛に辿り着くんだろうと思う。
哲学に愛という言葉はたまに出てくるけれど、愛とは何か?を哲学的にあまり語られない。

人とは?幸せとは?という哲学を論したものは多様にあるのに、
なぜ愛はあまり論じられないのだろう。
人や精神、生き方に、とってもwith なのに。

どうやら全てには、愛が根底に含まれていなければ、
イケイケどんどんと進めていっても、どこかで行き詰まりや虚無がおこる気がするんだ。
色んな人を見ていると。

先ほど、面白いなと言ったニーチェは、「神は死んだ」と論じた。
というか、「神なんて殺してしまえ」とまで言うほど過激に。
その当人ニーチェの死は、精神崩壊して亡くなるという形になったらしいのだけど、
ある人の見解では、神を否定した無神論者の哲学者には
晩年に精神をきたしてしまった人が多いと言う。
私が思うに、自分を理解するのに、虚無的な実存主義は、
どこか孤独で猜疑的になってしまうのではないだろうか?
そしてニーチェのような実存主義は、考え方によっては自己と他者が"何で"繋がれているかが曖昧だ。
実存主義も面白いし、人間臭くて、個人の精神を語るにはとても素晴らしいのだけど、
何か物足りないと感じるのは、
きっとあるはずの根源的なものを、説明してくれないからだ。
まさに、虚無的。

じゃ、私の感じてる、この根源的なそれは"何なの?"
何かもっと大きくて奥深いとこから人間の精神は存在していると思う。
"だって、絶対に何かあるじゃん。"と思う。
根底にでっかいものが。
私だけでなくそれを人は感じているはずだ。
感じているけど、大きすぎて全貌がよく見えないのか、同化しちゃって見えないのか、
見えないものの呼び方がわからない。

それを、もっと深く知りたいよね。それに触れてみたい。
でも多分、いつも触れてるし見えてるんだよね。
常に触れて見てるから、同化しちゃってよくわかんないんだよね。


あれ、ヘーゲルの事、書くつもりが長くなっちゃったので、
ヘーゲルについてはまた、明日。か、そのうち。

では、また!
チャオ!
ॐ नमः शिवाय( ´ ▽ ` )ノ

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